レインボー (15)

 

試験のために2週間ほど見舞いに行けないうちに、彼女に変化が起きたようだった。 メールでいろいろと報告してきてくれる。

「こんにちは! きょうは母に、頼んでおいたアロマセラピーに関する本と、またいくつかの、花のエッセンシャルオイルを買って来てもらいました。 このオイル一つ一つの香りや効用を覚え、ブレンドもして使いこなせるようになりたいから、がんばります!」

みちるさんはどうやら、芳香療法を扱うプロ、アロマセラピストを目標にしたらしい。

「わたしのいる部屋の前を通ると、このごろいつもいい香りがするから気分が良くなると、他の患者さんや看護士さんに言われるのがとてもうれしい」

と、その日のメールは結ばれていた。

 

そういえばいつも、スイが帰った後には、やさしい花の香りが残っていた。 それに気づくと僕は、どんな時にも気持ちが安らいだ。

花々や植物なる緑の安らぎは、いつでも癒しを与えようと僕らのそばに存在しているのだ。 生きとし生けるもののための滋養を育み、それを与えるために。 たとえこちらが、それに気づいていなくとも。

気づくことができればなお、誰にでも分け隔てなく、生きていく安心感や心地良さの扉が大きく開かれる。

 

僕の中で、スイや、その仲間たち、あるいは自然のあらゆる精霊たちが存在し、花や緑となって呼吸し、それがいつも人と共にある・・・その事が、突然胸に迫って来た。

僕らは本当は何かを画期的に変えていかなくても、最初から必要なものはみんな与えられている。 そして存在そのものが許され、愛されているのだ。 だからこそ、ありのままの自分の価値や意味、そして喜びを、誰もが必ず自分の中に見い出せる。 生かされているという愛情に、気づくことさえできれば。

 

 

 

 

 

学校に通い、塾に通い、繰り返しの毎日がこつこつと過ぎていく。 その間に季節は、本格的な冬を迎えようとしていた。

 

家に帰ると、母親がまたお菓子を作っているようだった。 その甘い香りが、玄関まで漂って来ている。

「何作ってるの?」

キッチンへのドアを開けて尋ねると、スーパーバニラ・チーズケーキ、という答えだった。

何? 『超バニラ』って、そんなにすごいの?

「バニラビーンズを、これ以上ないくらいぜいたくに使ったチーズケーキよ。 バニラビーンズっていうのは、バニラの黒いさやの中に詰まっている、点々みたいに小さな種の事なんだけど、それがあの甘いバニラ本来の香りの元なの。 それを普段のものの何倍もぜいたくに使って作るチーズケーキよ。 私の通ってるF先生の、特別なレシピの一つなのよ」

そう聞いて、そのいい香りにますます鼻をひくひくさせてしまった。 焼きあがったばかりだというので、冷めるのが待ち遠しい。

でもその前に、僕は腹ペコだった。 母親が、

「ごめんね、きょうはケーキに手間取って、何も用意してないの」

 

というわけで、それから1時間後に親子二人の外食となった。

寿司屋のテーブルに向かい合わせで、握り寿司にかぶりついていた僕に、母親は切り出した。

「実はね、来年の春から、お父さんが向こうに来ないかって」

「えっ!?」

大きなイカが、のどに詰まりそうになる。

「なんでまた急に?」

「急でもないのよ。 2年間っていう約束でお父さんはシカゴに行ったわけだけど、いろいろあって、予定よりだいぶ延びそうなんだって。 あなたの大学の事があるから相談してみないとって、言ってあるんだけど・・・」

母親は、何とも言えない困ったような表情だった。

 

「それで、母さんはどうしたいの?」

お茶を飲んで一呼吸ついてから、僕はまっすぐ母親を見て、聞いた。

「私は正直言って、あなた一人を置いて行くのは心配よ。 お菓子教室も、せっかく、本当に楽しくなってきたところだし。 でもお父さんも、いくらメイドさんがいるとはいえ、やっぱり大変よね。 食事とか。 母さんも、2年だけならあなたの事があるから日本にいようと思ってたけど、やっぱりお父さんと暮らしたいわ」

母さんは、僕と学校の事を心配していたわけだ。 当然かもしれないけど。 しかしそれなら、話は決まった。

「僕は東京に残る」

「そう・・・」

少しの間僕の顔を見つめてから、母さんは言った。

「そう言うだろうと思っていたんだけど。 ・・・あなたなんだか、いつの間にかずいぶん大人びたわね。 このごろそう感じてたの。 じゃあ、入試がんばりなさいよ。 浪人の息子を置いて、外国になんて行けないんだから」

 

 

 

その夜帰って部屋に戻ると、窓辺の、いつも彼女を呼び出す時にクリスタルを置くあたりに、スイがちょこんと座っていた。

「ちょうど呼ぼうと思っていたところなんだよ。 お菓子があるし」

本当にそうなのだったが、スイを見つけた僕は、彼女がいる事で自分が予想以上にうれしくなっている事に気づいた。

「きみから来てくれるなんて、うれしいよ」

思わず素直にそう言うと、

「それはそれは」

と、わざとかしこまった調子で答えて、スイは笑った。

 

キッチンに下りていくと、母親が、先ほどのケーキにナイフを入れていた。 つやのある、美しいきつね色に焼きあがったケーキ。 切り口の、カスタードクリームの色をした断面からは、バニラビーンズの黒く細かな粒々が、たくさん顔をのぞかせている。

「上で食べるよ。 大きく切ってね」

そう言って、それとティーポットと一緒に、こっそり用意したスイ用のカップとお皿と、小さなフォークも持って2階へ上がった。

ちぐはぐした大きさの、二人分のカップに紅茶を注ぐ。 スイはそれをそばで見つめていた。

小さなお茶会。 スイと一緒だと、不思議の国のアリスの世界だな、と思う。 小学校の時の担任の先生が、自習の時間にディズニー映画のそれを、こっそり見せてくれたっけ。 あとでちゃんと感想文を書かされたけど。

 

「さて、きょうはなんの話をしましょうか?」

僕たちはケーキに満足して、2杯目の紅茶を飲んだ。

「来年の春に、ここを引っ越す事になった」

「うん」

スイはうなずく。

「父さんの仕事の都合が変わって、まだしばらく向こうにいる事になったんだって。 だから母さんも、今度はあっちに行く事にしたらしい」

「それで、あなたは?」

「うん。 僕はこの家じゃ広すぎて、とても管理や何やできないし、母さんはここを、向こうに行ってる間だけ人に貸すことにしたいと言ってるから、僕も適当な安いところを見つけて引っ越しだ」

「そう」

「ピップは親戚に預かってもらうって」

スイはまたうなずいた。

「大学、滑らないようにしなきゃあな」

ひとりでにそんな言葉が口をついたが、本当にそうだった。 ぴしゃりとひざを叩いて立ち上がり、伸びをする。 何だか武者震い。

「がんばって!」

何だか周囲の変化がめまぐるしい。 だが、ここですくんでいたら男じゃない。

「じゃあ、ひとつ物理の復習でもするか」

「さっそくね」

スイは楽しそうににこにこしている。 その顔を見ていると、何も困難な事じゃないと思えてくる。

 

それから 「じゃあね」と、スイは座っていた机の端からふわりと飛び立った。

「ケーキ、とってもおいしかったわ。 お母様、本当にお菓子を作るのが上手ね」

そう言って小さなウインクすると、パッと行ってしまった。